紅茶で小話シリーズ第一弾『春の一滴(ひとしずく)』

ヒマラヤの麓、標高2,000メートルに広がるダージリンの小さな茶園。
この地で生まれ育った若き娘・アリヤは、今、人生の新たな季節を迎えようとしていた。
来月には遠くの町へ嫁ぐことが決まり、彼女がこの農園で過ごす春は、これが最後だった。

父は長年、ファーストフラッシュを誰よりも大切に育ててきた。
それは、冬を越えた最初の新芽だけがもたらす、一年で最も繊細で、透明感あふれる香り
「この茶葉には、春そのものが宿るんだ」と、口癖のように言っていた。

ある朝、まだ霧の残る茶畑で、父と娘は肩を並べて茶葉を摘んでいた。
いつもは無口な父が、ふと立ち止まり、アリヤに小さな布袋を手渡した。
中には、彼女が生まれた年に収穫された、貴重なファーストフラッシュの茶葉が入っていた。

「春は何度でも戻ってくる。でも、おまえがこの春を見るのは、ここではこれが最後だな」
父の声は穏やかで、どこか誇らしげだった。
「この茶葉は、おまえが生まれたときと同じ年の春の味だ。嫁いだ先で、静かな朝に飲んでごらん」
「そしたら、きっと思い出す。ここで過ごした春の香りを、父さんの声を」

アリヤは頷きながら、その袋を胸に抱いた。
ファーストフラッシュの香りは、彼女の記憶に刻まれた家族の時間そのものだった。

それから数週間後、茶畑に再び春の風が吹いた。
摘まれたばかりの茶葉は、例年以上に香り高く、どこか柔らかい甘みを纏っていた。
まるで、父の想いがそのまま宿ったかのように。

「今年の春は、いい出来だ」
父は独り言のように呟き、湯を注いだカップの中で揺れる黄金色を、ゆっくりと見つめた。

story about one farm of Indian tea